今回は、中山道の一番最初の宿場であった「板橋宿」を散策します。
板橋宿という名は総称で、実際には上宿・中宿・平尾宿の三宿が並んでいたそうです。宿場町というのは人足や荷馬車を常備した公設の貨物ターミナルのようなものだったそうで、人足が寝泊まりして働くことから「宿場町」と呼ばれるようになったもので、平尾宿は中山道沿いの農作物が集められていたそうです。この追分というのは分岐点のことで、ここで中山道と川越街道が分かれていた。但し、川越街道は江戸城の兵糧を生産する大切な場所であったため、川越藩主以外の大名の通行が禁じられていたそうです。
平尾追分は、中山道から川越街道が分岐する地点に位置し、かつては「平尾宿」とも呼ばれていました。日本橋から約7.9kmにあたる「平尾の一里塚」があり、旅人にとって重要な目印でしたが、現在はその跡も含めて残っていません。追分(おいわけ)とは道が分かれる場所を指す言葉です。
観明寺は、1338年に創建された真言宗の寺院で、江戸時代から地域の重要な寺院として機能してきました。明治6年に、住職が成田山から不動尊を勧請し縁日を開いたことで、観明寺は「出世不動」として親しまれるようになりました。
商店街の「板橋宿不動通り商店街」という名称も、この不動尊に由来しています。
観明寺寛文元年庚申塔は、1661年に造立された庚申塔で、板橋区の重要文化財です。
高さ190cmで青面金剛像が刻まれており、都内最古の庚申塔として知られています。
観明寺の赤門は、かつての加賀藩江戸下屋敷から移築されたもので、板橋区の不動通り商店街に位置する貴重な遺構です。
江戸時代末期から明治時代にかけて移築されたとされています。
続きます。