四谷は江戸時代からの歴史的経緯で寺社が多く集まる「寺町」として知られています。江戸城の拡張工事により麹町から移転してきた寺院が多かったこと、防御拠点としての役割もあったことなどが理由で、現在でも多くの寺院が点在し、静かな歴史的景観を形成しています

戦時下に金属供出を免れた梵鐘が貴重ということで区の文化財になっている。榊原鍵吉の墓、健吉はは兜割りの成功や死ぬまで髷を解かなかったことから「最後の剣客」と称された人物です。

582年(天正10年)、雪庭春積によって開山された。元々は現在の千代田区麹町から、江戸城拡張工事のため、1634年(寛永11年)に現在地へ移転しました。墓地には、江戸時代の死刑執行人6代山田浅右衛門吉昌、映画監督の島津保次郎の墓があります。

江戸時代からの山門。 慶長9年、麹町清水谷に起立したが、近辺の寺々と同じく、元地が収用されたため寛永11年12月5日に現地に移った。開山、明巌舜洞和尚は、翌12年の7月19日寂した。中興は松平越後守の奥女中で、法名は長寿院安窓永心大姉。延宝7年(1679)6月8日に歿した。四谷寺町にふさわしい、静かな佇まいの寺院。築300年の本堂は、風格がある貴重な建築物。

この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り,薄暗い坂であったためこう呼ばれたという。また,松厳寺の俗称が茶の木寺であるため,茶の木坂とも呼ばれた。かなり急坂です。

日蓮宗系の寺院、明徳2年(1391年)、足利義満の時代に今の麹町9丁目に創建されました。明暦3年(1657年)に現在地の旧四谷南寺町に移転しました。

日蓮宗。八の日が縁日で、戦前までは四谷の毘沙門様として賑わいをみせていました。毘沙門堂の建築年代は言い伝えによると元禄頃とされているが明らかではありません。 山門は毘沙門堂と同じ頃の建立と伝えられています。形式は薬医門、瓦葺、袖塀潜戸付きの堂々たる山門である。塙保己一の師で国学者の萩原宗固の墓もあります。

家康が伊達政宗を警戒し、謀反を起こさぬよう北方の守護の毘沙門天を北向に安置し祈願したと伝わります


四谷怪談の『お岩さん』の像が安置されているお寺。勝手なイメージで禍々しい雰囲気を想像していましたが、美しく整備された境内はオープンカフェも併設し、住宅街にありながら賑わっていました。こじんまりしていますが、見どころも多く明るい雰囲気です。

由来の事
江戸時代、文政八年七月、歌舞伎作者 四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に広まり、お岩様が庶民の畏敬を集めました。この地にあったお岩様の霊堂が戦災にあったため栃木県沼和田から薬師堂を移築再建し当寺が開山されました。
境内にある秦山木の下にお岩様縁の祠があったと伝えられ陽運寺の起源とされています。薬師堂の棟札には宝暦七年と記されており、二五〇年以上の歴史ある建物です。当堂内にはお岩様の立像が奉祀され、厄除け、ご縁事、芸能事に霊験があると多くの参拝者の信仰を集めています。境内にはお岩様由縁の井戸、再建記念碑等があります。

当寺は江戸、文政年代に活躍した四世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」で有名なお岩様をお祀りしていることから「於岩稲荷(おいわいなり)」とも呼ばれています。
本堂にはお岩様の木像が安置されており、境内には昭和32年に新宿区より文化財に指定されていたお岩様ゆかりの井戸があります。なお、歌舞伎興行の際には安全と成功を願って役者等関係者が必ず参拝に訪れます。また、悪縁を除き、良縁を招く縁結びには多大なご利益があり、全国各地より多くの参拝者が訪れます。
於岩稲荷 長照山 陽運寺

こちらはお岩さんを祭るお寺でした。道を挟んであちらのお岩さんを祭る神社に参ります。


江戸時代後期の歌舞伎脚本作者、四代目鶴屋南北が書いた『東海道四谷怪談』で有名な民谷伊右衛門の妻・お岩をまつったお岩稲荷神社の旧地で、東京都指定旧跡です。
物語は、四谷左門町の浪人・伊右衛門が不義をしたうえにお岩を毒殺し、その亡霊に報復されるという話。文政8年(1825年)、江戸浅草の中村座で上演し、大当たりしました。これは物語であり、幕府の御家人・田宮又左衛門の娘お岩は、養子伊左衛門の貞淑な妻で、代々家に伝わる稲荷を信仰していました。このお岩にあやかろうと、お岩稲荷の信仰が盛んになったといわれています。
明治5年頃、『田宮稲荷』と改められ、現在は飛地境内社としてお岩稲荷の旧地を守っています。

四谷怪談(よつやかいだん)とは、元禄時代に起きたとされる事件を基に創作され

た日本の怪談。江戸の雑司ヶ谷四谷町が舞台となっている。基本的なストーリーは「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というもので、鶴屋南北の歌舞伎や三遊亭圓朝の落語が有名である。日本一有名な怪談といわれるほど現代に至る怪談の定番とされている。
「於岩稲荷由来書上」・・各町に古来伝わる逸話を幕府に提出した調査報告書。
あらすじ:内容は貞享年間(1684年 〜 1688年)、四谷左門町に田宮伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門は婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚して子を儲けてしまった。その事を知ったお岩は発狂した後に失踪。その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者が次々と死んでいき、最終的には18人が非業の最期を遂げた。田宮家滅亡後、元禄年間に田宮家跡地に市川直右衛門という人物が越し、その後、1715年(正徳5年)に山浦甚平なる人物が越してきたところ、奇怪な事件が起きた。このため自らの菩提寺である妙行寺に稲荷を勧請して追善仏事を行ったところ怪異が止んだ――というあらましである。
なぜ「お岩稲荷」が三つあるのか?
現在、四谷左門町には於岩稲荷田宮神社と於岩稲荷陽運寺が、道を挟んで両側にある。また、中央区新川にも於岩稲荷田宮神社がある。
四谷の於岩稲荷田宮神社(田宮家跡地)は1879年(明治12年)の火災によって焼失して新川に移った。新川の於岩稲荷田宮神社は戦災で焼失したが太平洋戦争後に再建され、また四谷の旧地にも再興された。⇒於岩稲荷田宮神社
陽運寺は昭和初期に創建された日蓮宗の寺院である。境内には「お岩様ゆかりの井戸」があり、また境内には「お岩様縁の祠」があったと伝えられている。元々は於岩稲荷田宮神社が中央区新川に移転した際、地元の名物が無くなって困った地元の有志が「四谷お岩稲荷保存会」を立ち上げ、この時、本部に祀ったお岩尊という小祠が大きくなったのが陽運寺の成り立ちである。⇒於岩稲荷陽運寺
お岩稲荷が複数もできた要因としては単純に儲かるためである。歌舞伎俳優は元より、お岩の浮気に対して見せた怨念から、男の浮気封じに効くとして花柳界からの信仰を集めたため、賽銭の他に土産物などで地元経済が潤ったからといわれている(ウィキペディア(Wikipedia)より)




この近くには、新宿歴史博物館や消防博物館などがあり、いずれ見学したいと思っています。