GOCHANの日記

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浅草を散策する⑤二天門・浅草神社

二天門

浅草寺本堂の東に建つ朱塗りの門で、今の門は慶安2年(1649)に浅草寺の東門として創建された。当初は随身門といわれ、豊岩間戸命、櫛岩間戸命を守護神像(随身像)として左右に祀っていました。明治17年(1884)、神仏分離によって随身門に安置されていた随身像は、浅草神社遷座されて、鎌倉の鶴岡八幡宮から広目天持国天の像が奉納された。このとき名称を随身門から二天門と改めました。この二天の像は、1945年に修理先で戦災にあって惜しくも焼失し、現在の持国・増長の二天像は、昭和32年(1957)に上野・寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱霊廟)から拝領した像。門に向かって右が持国天、左が増長天である。二天門は境内に残る江戸時代初期の古建築として貴重であり、国の重要文化財に指定されている。平成22年(2010)に改修を終え、創建当初の鮮やかな姿によみがえりました。

 

浅草寺境内図

二天門 手水鉢
手水鉢とはお寺をお参りする前に手を清めるため置かれた鉢の事ですが、二天門の脇にひっそりと置かれた石造の手水鉢は、案内板に書かれてる様に安永6年(1777年)に寄付された物です。又和有る銘文から当時置かれた場所が裏門外と有り当時のままだそうです。

 

浅草神社

浅草神社(あさくさじんじゃ)は、東京都台東区浅草に所在する浅草寺本堂の東隣りにある神社である。通称に三社権現(さんじゃごんげん)、三社様(さんじゃさま)。5月例大祭三社祭という。

浅草寺の創建に関わった土師真中知(はじのまなかち)、檜前浜成(ひのくまのはまなり)、檜前竹成(ひのくまのたけなり)を主祭神[2]とし、東照宮徳川家康)・大国主命を合祀する。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった。

明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年に三社明神社に改称、明治6年に現在の浅草神社に改称した。

初代中村吉右衛門句碑
明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。浅草象潟町生まれ。

扇塚
扇の形をした石碑。毎年4月8日に、古い扇子をお焚き上げする行事が行われています

花柳壽輔
花柳流宗家家元の襲名 『雷ハ田町をよけて鳴りわたる』とある

三柱の石碑
平成30年3月に建立され、紋と海を表す意匠に浅草神社の御祭神である土師真中知檜前浜成檜前竹成の3柱を祀る「三社権現社」の由来を記した石碑です。観音様との御縁や浅草草創の経緯と信仰を伝え記すと共に、地域社会の更なる隆盛への願いが込められています。

三社祭の神輿

神輿は祭礼にあたり、神幸祭に際して、ご神体あるいは御霊代がお乗りになる輿の事をいいます。神幸とは、ご神体が御旅所に渡御することをいいます。このとき、氏子達が担いで各地区を練り歩きますが、こうすることで神様に各地区をご覧頂くのです。神幸の途中、神輿を上下左右に振り動かしたり、わざと荒々しく揺さぶることで、神輿に坐す神様の「魂振り(たまふり)」を行い、これにより神様の霊威を高め、豊作や豊漁、疫病の退散がなると信仰されているのです。

浅草神社には3基のお神輿があり、祭礼の際は、一之宮には土師真中知命、二之宮には桧前浜成命、三之宮には桧前武成命の御神霊をそれぞれお移しし、町中を渡御します。(浅草神社三社祭の資料より)

 

三社祭の神輿は、左から、三之宮、一之宮、二之宮の順

横には協賛する各社の提灯が並んでいました

被官稲荷神社

解説板によれば、安政元年、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快しました。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものです。

 

浅草寺の周りには、医王院、妙音院をはじめ浅草寺の末寺が集まっています