GOCHANの日記

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墨田・多聞寺を訪ねる(2 多聞寺の境内に)

多聞寺に着きました。

多聞寺は、平安時代の中期の天徳年間(957年~961年)には今の隅田川神社付近にあって、大鏡明王院隅田寺と称え、本尊は不動明王でした。天正年間(1573年~1593年)に、当時の住職だった鑁海によって現在地に移され、「隅田山吉祥院多聞寺」に改称し、本尊も毘沙門天に変更した。

多聞寺は墨田区の最北端にあり、関東大震災、戦災ともに遭わなかったので、昔日の面影を残す数少ない寺院となっています。寺前の道は古代から続く街道の名残です。特に山門は木造茅葺(かやぶき)切妻造四脚門の様式をとるもので、多聞寺に残る唯一の江戸期木造建築であり、区内最古の建造物と考えられます。享保3年(1718)に焼失し、現在のものはその後に再建されたものです。

境内には、悪さをした化け狸を葬った「狸塚」があり、多聞寺を一名「たぬき寺」とも呼びました。境内の解説によれば、江戸時代以前、現在多聞寺のある辺りは草木の生い茂る河原で、毒蛇や「牛松」という大木の根元の穴に住み着いた妖怪狸など多数の妖怪がいる恐ろしい場所だった。そこで、鑁海和尚はその穴を塞ぎ、寺院を建立して妖怪を追い払うことにしたが、化け狸の悪戯は酷くなるばかりだった。ある晩、和尚の夢に大入道が現れ、手を引くよう脅した。そこで和尚が一心に本尊を拝むと、毘沙門天の使いが妖怪狸の前に現れ、説得を試みた。次の朝、二匹の狸が門前で死んでいるのを見つけた和尚と村人は彼らを哀れみ、牛松や狸の供養のために塚を築いたという。

また、多聞寺は毘沙門天を祀ることから、文化年間(1804〜1818)に隅田川七福神のひとつに組み込まれました。以来、現在に至るまで正月は七福神巡りで賑わいます。

 

上の写真は、「坐姿六態地蔵」と呼ばれる都内でも珍しい形態の尊像です。

仏教における地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のどこにいても救いの手をさしのべてくれるという地蔵尊です。

共同映画が中心となって建立した映画関係者の合葬墓である映画人の碑があり、他には東京大空襲で被災した浅草国際劇場の鉄骨や1991年に西日暮里で発見された戦災樹木の屋外展示があります。