東京メトロの千駄木駅で下車し、団子坂下の交差点から、少し急な坂の団子坂をまっすぐ上がって、「森鴎外記念館」を目指します。
本名は「森 林太郎」。1862(文久2)年、代々津和野藩の典医を務める森家の長男として生まれました。
10歳のとき父と共に上京し、ドイツ語を学び東京大学医学部予科に11歳で入学。大学では医学を学び、卒業後陸軍軍医となりました。1884(明治17)年からは、軍の衛生学の調査及び研究のためドイツへ留学しました。
帰国後は軍医としての仕事のかたわら、小説「舞姫」「雁」「山椒大夫」「高瀬舟」、史伝「渋江抽斉」などを執筆。医学・文学の評論や小説・戯曲等の翻訳、ヨーロッパ文学の紹介などを行い、明治を代表する知識人として活躍しました。
1907 (明治40)年には陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に就任、1916(大正5)年まで務めました。陸軍を退職した翌年からは、帝室博物館総長兼図書頭の職につき、上野の帝室博物館や秋には奈良の正倉院にも赴き、亡くなる直前まで仕事を続けました。
千駄木団子坂上にあった「観潮楼」には家族とともに30年間、1922(大正11)年7月9日、60歳で亡くなるまで暮らしました。
「観潮楼」は、鴎外がひらいた歌会の会場としても使われました。会には、石川啄木、斎藤茂吉、木下杢太郎なども来会、鴎外により西洋の最新の文学事情が伝えられた会でもありました。
鴎外は、若者たちから千駄木のメエトル(先生)と呼ばれ、歌会は観潮楼歌会と呼ばれるようになったと言います。観潮楼は、まさに文人たちのサロンでもありました。
明治の文豪の歴史を訪ねる散歩でした。