今回は、以前掲載した「皇居 東御苑」を大手門から散策します。前回は、「皇居東御苑」を平川門から入り天守台を巡り、2024年9月15日に掲載しました。
三田線、千代田線の「大手門」で下車します。
内濠に架かり、大手町一丁目と丸の内一丁目の間から、皇居東御苑に入る土橋です。大手門は江戸城の正門でしたから、御城入口御門橋・大手下乗橋などの別名もあります。大手門は慶長11年(1606)に造られました。橋は、江戸時代は木橋でしたが、大正年間に埋め立てられ、土橋となりました。橋の北側は大手濠、南側は桔梗濠と呼ばれています。徳川家康入国以前は、この辺りも日比谷入江が入り込み、ここに船着場があったと伝えられています。別名として、「御城入口御門橋」・「大手下乗橋」があります。
大小2つの門に囲まれた枡形は、侵入する敵を阻止し、攻撃しやすい構造になっています。大きい門は昭和20年4月の空襲で焼失しましたが、昭和42年に復元されました・焼失前の門の屋根に飾られていた鯱には、頭部に「明暦三丁酉」(1657年)と刻まれています。この明暦3年には、江戸城の多くの建物が焼失した「明暦の大火」が起きており、鯱は、大火のあと、江戸城再建時に製作されたものと考えられます。
江戸時代には大手門から本丸入口までの登城路に警備のための3ヶ所の番所が設けられていました。三の丸尚蔵館を過ぎるとすぐ右手に「同心番所」があります。ちょうど左に直角に曲がる角にあり、かつては番所の前に大手三之門がありました。同心とは士分格ではない足軽扱いの下級武士で、番所の名は彼らの詰所だったことに由来しています。この同心番所がある大手三の門からは、徳川御三家以外は駕籠から降ろされ歩いて登城することになります。
大手門から大手三の門を抜けたところの左手にあるのが、長さ50メートルを超える百人番所です。大手三の門を守衛した江戸城本丸御殿最大の検問所でした。鉄砲百人組と呼ばれた根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で詰めていました。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たりました。同心が常時100人詰めていたところから百人番所と呼ばれるようになったといわれています。
次回は、二の丸庭園を目指します。