仲宿の続きです。
真言宗豊山派、幡場山大聖堂と号す。江戸初期、本陣飯田家の菩提樹として、昔から信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)寂の権大僧都慶恵。天保6年全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ赴任し、出世寺とも呼ばれた。本尊は文殊菩薩。山門脇に延命地蔵堂、境内に板橋の二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現堂がある。閻魔堂内には、文化年間、番場原出土と伝えられる石樺が朝日観音として祀られている。墓地には史蹟として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂には、板橋七福神の毘沙門が奉安されている
当家は、飯田家の総本家であり、宝永元年(一七〇四)に本陣を飯田新左衛門家に譲っていますが、江戸時代を通じて名主・問屋・脇本陣を努めました。世襲名は宇兵衞。
飯田家は、大阪の陣で豊臣家に仕えたとされ、その後、区内の中台村から下板橋村へと移り、当地を開発して名主となりました。元禄期頃宿場絵図には、当家の南側に将軍が休息するための御茶屋が設けられており、元和~寛永期に板橋の御林で行われた大規模な鹿狩りの際に使用されたとみられます。そして当家が御茶屋守としてとしてこれを管理していたと思われます。なお、御林四〇町歩は、後に当家に下賜されたといわれています。
江戸時代を通じ、名主家と本陣家の両飯田家は、お互いに養子縁組を行うなど、その機能を補完し合いながら、中山道板橋宿 の中心である中宿の管理と宿駅機能の維持・運営にあたってきました。
そのような中で、文久元年(一八六一)の和宮下向に際しては、宇兵衛家が本陣役となっています。その後も慶応四年(一八六八)の岩倉具定率いる東山道軍の本営となり、明治初期の明治天皇行幸などでも宇兵衛家が本陣を務めました。(板橋区教育委員会 掲示板より)
江戸時代に参勤交代の宿泊施設であった本陣や脇本陣は、明治3年に廃止され、用途が変わりました。板橋宿の脇本陣を務めた飯田家では、明治11年に北豊島郡役所が設置され、その後も東京区裁判所下板橋出張所として利用されました。この間、家屋の維持費用を飯田家が負担する一方、部分的な解体や売却を郡役所に願い出るなど、広大な建物の維持が困難であった様子が記録されています。最終的に大正5年まで公的施設として役割を果たし、板橋の歴史を物語る存在となりました。(平成22年10月23日発行「広報いたばし」より要約)