深川近辺を歩く(3 歴史に残る建造物)

深川公園の周辺には、江戸、明治と歴史に残る建造物やその跡があります。

 

富岡八幡宮の大鳥居から北東へ2分ほどのところにある八幡掘遊歩道。その八幡堀遊歩道にある旧新田橋は、大横川の江東区木場5丁目から木場6丁目を結んでいた、町の人々の暮らしを支え続けてきた小さな橋の人道橋でした。大正時代、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎さんが、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものとのことです。

 

旧弾正橋(八幡橋)は、明治11年(1878)、東京府の依頼によって工部省赤羽製作所において製作された都内最古の鉄橋で、国の重要文化財です。当初は中央区に架けられましたが、関東大震災後に富岡八幡宮の東隣りに移され、八幡橋と改名されました。長さ15.2m、幅2mの小橋ですが、明治初期の橋の風格を持ち、菊の紋章が取り付けてあり、橋梁史の上からも貴重な橋です。

 

三十三間堂跡。広重に描かれた「東都名所 深川三拾三間堂」のあった場所です。

寛永19(1642)年、京都の三十三間堂を模して、弓術稽古のため浅草松葉町三十三間堂が建立されました。元禄11(1698)年の火災で焼失、同14(1701)年に富岡八幡宮の東側に再建されました。正面の柱の間が33あることから三十三間堂と呼ばれます。

柱の間隔は二間のため、実際の堂の大きさは南北66間(約120メートル)、東西四間(約7メートル)でした。堂の南北を射通す競技「通し矢」が行われ、江戸の名所として賑わいましたが、明治5(1872)年に廃仏毀釈により解体されています。

「東都名所 深川三拾三間堂」(広重)